Secret
澄み切った青空がどこまでも広がるような、そんな昼休み。五月の風は少しだけ鬱陶しい髪を上げるのにはちょうどいい気温だった。
本当は外に出たり保健室を手伝いに行ったりしたかったけれど私はアルヴィン先生のところに提出物を出しに行かなくてはいけない。正直言って教室棟から化学準備室がある特別教室棟まではかなり距離があるし、せっかくの休み時間なのに面倒だ。たとえそれが学級委員の仕事だとしてもクラス全員分のプリントを誰も歩いていない廊下を通り届けに行くのは寂しい。私はそんな不満を頭の中に充満させながら、それでもひとつだけの期待を胸に向かう。
―――アルヴィン、今日はいるかな。
彼は暇があってはサボっているので本当はいるはずの化学準備室にいることは少ない。けれどその彼を捜し回るほどの口実は私には見つからない。提出物なんてわざわざ本人に提出必要のあるものではないし、いなかったらそのまま机の上に置いて帰るのが道理というものだろう。それでも補習以外で彼に直接会える唯一のチャンス。なんで私がこんなにアルヴィンに執着するのかは自分でもよく理解できなかったけれど、私は彼に関して知りたいこと知るべきことがたくさんある、気がする。話してはくれない。
彼の授業は適当でいるようでいてそれなりにわかりやすい。それでも毎回赤点を取ってしまうけど。生徒の目線で物事を考えてくれるし、少し無責任で放任主義なところはあるけれど、質問すれば応えてくれるし必要最低限の補習はしてくれる。毎回一人だけど。
妙に薄暗い廊下を抜けると冷たい実験室の扉が見えてくる。老朽化が進んで頼りない戸に二回ほどノックをするが、予想していたというとがっくりきてしまうが返事はなかった。
「いるわけない、か」
そう溜息を一つついた私は腕一杯に抱えたプリントもそのままに上手く足を使って扉を横へスライドさせていく。いないのだから、少々失礼なことをしても大丈夫だろう―――そんな安易な考えは扉を開けた瞬間に打ち砕かれる。
アルヴィン先生はいたのだ。正確には、ついさっきまで居眠りをしていたらしき形跡で、眼鏡を外している彼がいた。扉の前は仕切りになっているのでそういうことであれば気付かれなさそうだが、ふと思った疑問を口にする。
「せんせーが居眠りしててもいいの?」
「…昼休みだろ」
そう答える声もいつもののらりくらりとした口調がさらに拍車がかっている気がして。
「私が居眠りしてるといつも起こすくせに」
「じゃあお互い様だろ」
「むう…てか、こうして見るとやっぱり学校の外のアルヴィンだよね」
「その辺に関してはノーコメントな」
いくつもの書類が積み上がっていて、ここで本当に仕事ができるのかという風なアルヴィンの机。(自分の部屋の机もそんなことになっているとは言えないけれど)とりあえずプリントを置くためにそこに近づくと、授業内容に関係のないようなものもたくさん目に入る。こんな人がよく教師になれたなと今更ながらに呆れる。
「プリント、どこに置けばいいの?」
とりあえず適当にその辺に置いておけよ、と素っ気なく返した彼は珍しく無関心な態度を見せる。まだ眠りの世界から覚めていないらしい彼は自分がいつも接しているアルヴィンとは少し違う人間な気がして。いつもは姿も見せない本心が見え隠れしているような気がして。私は彼の表情をもっと見ようと覗き込む。焦燥心に駆られる。
どこかにいるようで、どこにもいない―――。
「アルヴィンは、何処にいるの?」
「此処にいるさ」
違う。ここになんていない。現に視線を合わせようとした私の瞳は誰とも交わらずに宙を彷徨っている。彼は遠くを見つめて心ここにあらずと言った口調で答えた。いくらいつものテストの点数は赤点でも、人の心だけはわかることができるように頑張ってきたつもりだから。放っておくのがベスト。そう頭では理解していても、不安と焦りとほんの少しの好奇心が私を突き動かす。
「さっきから一言でしか答えてくれないんだね」
「…さっきから質問ばっかだな。たくさんしゃべった方がレイアはお好みだったか?」
生徒が先生に質問するのは至極当たり前のことではないか。そう反論しようとした私にそう言って意地の悪い笑みを浮かべたのは学校の外のアルヴィンだ。本当に訳の分からない人。何故だか知らないけれど受け入れてきたその態度が、今日はとてももの悲しく感じる。けれど、このまま答えないでいた方がおかしい。
「そ、そんなわけないけど!…もう、今日のアルヴィンいつもと違って調子狂うな…」
「…レイアもいつもより大胆だけどな?」
――そう改めてこちらを見られた瞬間に気がついた。
置こうとしていたプリントが窓からの風で手から離れてはらはらと舞っていくのも目に入らないほど、そのとき私は動揺していた。グラウンドからの運動部の叫び声、いやかけ声が――やけに白々しく聞こえる。私は座っているアルヴィンの肩に手を置いて、彼の頭上から視線を絡ませるように見下ろしていた。私は一体何をしているのだろう。驚きのあまり仰け反ったせいで掛けていた伊達眼鏡が床へ滑り落ちる。額縁の中から眺めていたはずの景色が急にフィルターがなくなったみたいに不安定なものになった。いつのまにか心の安定剤のような役割をしていたそれを拾い上げようとすると、捕らえた視界が何かで遮られる。
ああ、どうして。どうしてと繰り返す私とふわりと広がる香水の香り。
「ったく、本当に無自覚な嬢ちゃんだ」
「…何も教えてくれないのは、そっちじゃない」
そう言って眩しさに目を閉じると、降ってきたものは――。