無自覚のランチタイム
はじまりは、くだらないことだった。
そう、たしか――――。
とある昼下がりの食事。宿屋の食堂で頂く今日の献立は、レイアの好物のフルーツ焼きそばだった。一応料理屋のメニューということもあり口に入れた瞬間涙が出るほど不味くはないのだが、できれば甘味は甘味で食べたいものだと彼女以外の全員が思う、あの料理。フルーツの爽やかな甘さと、太い麺がマッチしているんだかしていないんだかよくわからない食べ物ではある。
「よくこんなもん喜んで食うよな」
「フルーツ焼きそばのこと?…て、こんなもん呼ばわりしないでよ!おいしいんだから」
「でも焼きそばは焼きそばで食った方が美味くないか?」
レイアは皆が早々に妙なそれを食べ終わり去ったあとも一人で大盛りを口いっぱいに頬張り続けていた。よく働く彼女は食べる量も多いらしく、(子供の頃から彼女の父親の評判の料理を食べていたせいもあるだろうが)特に好物のサイダー飯やらフルーツ焼きそばとなると皆があまりにもお腹が空いたとき以外はレイアが多めに取って食べることもしばしば見られた光景ではあった。
だって好きなんだもん、が彼女の口癖。
アルヴィンはそれを食後のコーヒー(実はブラックではなく砂糖入り)を啜りつつその様子を半ば感心するような目で眺めていた。
「えー、フルーツ焼きそばの方がおいしいよ!アルヴィンだって、実はアップルグミ好きなくせに」
「…は?どこの誰がそんなこと言った?」
「私知ってるよ。アルヴィンがみんなよりアップルグミを多く持ってること。一応道具担当だから…もちろん、エリーゼには言ってないよ?」
「……」
一番バレなさそうなところにバレていた衝撃にアルヴィンはしばし固まると絞り出すように言葉を発した。言わないでくれよ、と。レイアはその様子を見て影でこっそりと笑いながら返事をした。誰でも言って欲しくないことの一つや二つあるよね、と言った彼女に承知できなさそうな顔をしたアルヴィンは、言い返す言葉を見つけたようで間一髪入れずに呟いた。
「でもサイダー飯はどうかと思うぞ」
「26才にもなって味覚が子供なのもどうかと思うよ」
「いやレイアの方がおかしい」
「アルヴィンだって、そのコーヒー実は…」
そう言ってレイアはティーカップの持ち手を自分側に持ってこようとすると、すかさずアルヴィンはまたほかほかと湯気を放っているフルーツ焼きそばを自分の方へ寄せた。
一進一退の攻防。お互いを睨み合う光景はハタから見れば見つめ合っているようにしか思えないが、二人にとっては周りが見えないほど大事なことだった。お互いの息づかいを注意深く観察し、隙を伺っていた。
「返して」
「そっちが返してからだな」
「むむぅ…じゃあ、とりあえずコーヒー飲んじゃうよ?」
「それは…!」
レイアはティーカップの持ち手に指をかけた―――瞬間に、アルヴィンはその手に触れて制止しようとするが―――。
カチャリ、と。
陶器と陶器が擦れ合う音で二人は同時に我に返った。
アルヴィンの顔を面白半分に見ようとしたレイアに、全力で止めようとしたアルヴィンがいる。そのただの痴話喧嘩にしか見えない構図ができあがったところまでは良かった。
ただひとつ。決定的に普通とはかけ離れているところがあった。
―――彼女の唇と、彼の唇が不運にもぶつかってしまったところだ。
それは、世間一般の呼び名では事故チューという奴で。二人は目を見開いたと同時に、一気に顔と顔の距離を離した。唇に残る相手のそれの柔らかい感触。その生々しさがさらに二人を動揺させた。息を合わせるように彼らの顔は上気しみるみるうちに赤く染まっていく。
「―――――っ!」
――――とまあ、そんなわけで。
お互いの飲み物と食べ物を無論何か言葉を発せられるわけではなく、二人は無言で返し合った。レイアは自室に帰った。思えばそれが間違いだったのかもしれない、と食堂に一人取り残されたアルヴィンは今更ながらに後悔していた。
お互いの同意の上でのああいうことは初めてではないが、レイアはどうだったのだろうか。幼い頃にジュードとふざけ半分で――ということがあれば良い。藁にも縋る思いでその想像が現実であるようにと願う。もし初めてだったら…なんてことを考えるだけで責任という言葉がずしりとのし掛かってくるような気がして、アルヴィンは小さく身震いをした。
―――いくつ彼女に貸しを作ったら、気が済むのだろう。
アルヴィンは今までに起こった幾つもの出来事を思い返してみる。
彼女が被害を被った事件は元を返せば全部自分のせいだ。子供っぽい自分の味覚を隠したいが故に、結果的にはああいう事故が起こってしまった。今思い返して見れば、なんと馬鹿馬鹿しい理由だろう。そういうテンションだったと言えばまあそうだ。男女の喧嘩の勢いというものは恐ろしいことであると今までの人生経験で知っているつもりではいたが、まさか今ここで起こるとは想定外だった。
男にとってはそこまで重要ではない接吻という行為も、女からしてみれば人生で一度きりのファーストキスなんていう言葉があるくらい重要であるということもこれまでの恋愛経験からアルヴィンは知っていた。そのせいで何度か殴られたこともビンタをされたこともあった。彼女はまだ十五才だ。幼い頃ジュード以外の男性と…なんていうことはほぼ皆無に近いだろう。
せめてあの場で謝罪の言葉が言えていたなら今ここで自分が思い悩むことはなかっただろうに、アルヴィンは溜息をついた。
向き合うということは難しい。今まで目を背けていたやったことに対する落とし前というものをどうするかは、自分自身まだ苦悩しているところがあって。―――その中で、コレが来たものだ。二十六才の大人らしくもなく考えていることはぐちゃぐちゃになりつつあった。
「レイアと、何かあったんですか?」
先ほどまでレイアが座っていた、食堂の木製の椅子がゆっくりと引かれる音がする。ふと、顔を上げるとそこに位置をとったエリーゼが何でもない調子でアルヴィンに語りかけていた。傍らには冷め切ってしまったコーヒー。気分は白けて飲む気も失せてしまったそれをティーカップの持ち手を持ってくるくると揺すりながら、アルヴィンはエリーゼと語調を合わせるように応える。
「なんでもねえよ」
「…嘘ですよね」
「ああそうだ」
もう考えるのが面倒になってきた。アルヴィンはエリーゼに投げやりな言葉を返すと、机の上に突っ伏した。エリーゼはそれを心底呆れたような目で見ているだけだった。また、ちらちら入り口の方を見てはレイアを思っての心配そうな顔も見せる。なんという落差。もっとも、彼女と二人で話すときはこの基本的にこの立ち位置だったので何ら問題はない。というとかなり語弊がありそうだが、目下の問題は"彼女のこと"であって。
そこでふと気付く。
「……なんでレイアとなんかあったって知ってるんだ?」
「真っ赤な顔して出て行くレイアと、珍しく考え事をしてるアルヴィンを見れば誰だってわかります」
「そうだよな…」
レイアが一刻も早くここから離れたいというようにあっという間に消えた後ろ姿を思い出しながらアルヴィンは遠くを見つめる。これではどちらが年上かなんてわかったものではないな、と口には出さないがそう思った。
エリーゼは躊躇いがちに疑問の核心を問うた。
「…何があったんですか」
「レイアが嫌がるだろうきっと」
「そうですか…本当にアルヴィンはひどいですね」
「だろ」
本音でぐさぐさと突き刺さる言葉とエリーゼの責めるような目は、今の自分には良い薬かもしれない。過去に知らなかったとはいえ彼女を傷つけたという負い目が子供ながらにあるのかもしれないが、レイアが大好きだからこそ出る本音だろう。それは自分も同じであって―――。あれ今、なんて思った。
ふいに。
ちょうど向こう側にある食堂の扉が大きく音を立てて勢いよく開いた。その中からいきなり走り出てきたのは誰にも予想しなかったであろう人物―――レイアだった。
そのまま自分のところへと短距離走のように走ってきたかと思うと、息を切らしながら言った。
「ごめん!!」
その姿に食堂にいる誰もが―――自分やエリーゼは尚のことに呆気にとられる。驚きのあまり後ろに仰け反った。どうして彼女がここまで走ってくる必要があったのか、そしてどうしてレイアが謝るのか。おそらくエリーゼも思ったであろう疑問が浮かび上がるが、それさえも超越するのが彼女のような気がしないでもない。レイアはいきなり動きすぎたのか荒くなった息を整えると、さらに続けた。
「あのまま何も言わずにいなくなったら、アルヴィン困るよね!!それに私気付かなくって……それで……とにかくごめん!」
「てかまずレイアが謝ることじゃないだろ…こっちこそ、悪かった」
「まあ…事故だったから…」
―――正直、今でもレイアの顔を見ることができない。
一瞬触れた唇の感触は、まだ忘れられずにしっかりと脳裏に焼き付いたままだ。偶然とは恐ろしいものだ。こうも簡単に―――意識させられてしまうなんて。人は、いや自分は単純な生き物だと思いつつ、彼女の自分にはない優しさにも惹かれているところがあるのも事実だ。恥ずかしさに互いの顔を見ることが出来ずに沈黙する。アルヴィンはらしくもないウブな考えを振り払うと、何事もなかったかのように誤魔化した。
「まさかああなるとは思ってなかった…」
「でもまあ、しょうがないよね!」
レイアはそう言ってにこりと微笑んだ、リーゼはそれを見てほっと安心そうな顔をしていた。良かった。けれどひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがあって。アルヴィンは聞いて良いかどうかも分からない疑問をぽつりと口にした。
「レイアはあれ、初めてだった…とかじゃないよな?」
「……そういうこと今聞く?普通……あっそういえば!!」
あっ、とアルヴィンが言うのとどちらが早かったか。レイアは机の上に放置されていた冷たくなったコーヒーのカップを持ち上げて一口飲んだ。口に入れた瞬間の表情が結果を端的に表していて、アルヴィンは一気に青ざめる。抵抗する気力も失ってしまったようで、ただそれをおびえたような瞳で見ているだけだった。
「あっま!!アルヴィンこんなの飲んでるの?ほら、エリーゼも」
エリーゼはレイアから渡されたそれをアルヴィンに奪われないうちにそっと飲み干した。
「私は砂糖が入ってて飲みやすいけれど、アルヴィン、大人ですよね」
「この際もう何とでも言えよ…レイアみたいな味覚音痴に言われても」
「今なんて言った!?」
「なんでもないです…」
結局のところアルヴィンはこれに気付かれたくなかったのか。
味覚がちょっとずれている辺り、この二人は似ているのかもとエリーゼはくすくすと笑って―――二人へ向かって笑顔を見せた。