虹
彼の横顔を見るのが好きだった。困った顔も、仕方なさそうに微笑む顔も、それから可笑しそうに笑う顔も、それに合わせて揺れる荒っぽいけれど綺麗に伸ばされた髪が揺れるのを見ているとこれ以上は何も要らないという気持ちになる。
―――何より、彼と目を合わせないで済むから。
彼がこちらに視線を向けると、彼の紫色の瞳がわたしを見透かしているような、なんとなく恥ずかしい気持ちになる。こうして隣で歩いて横顔を見ている限りは、彼とわたしの視線が交わることはない。わたしの心の中も平穏を保ったままでいられるし、彼に迷惑をかけることもない。
わたしの思いは一方通行だ。この夕焼けの太陽の光線みたいにまっすぐでもない、とてもふわふわしていて曖昧で想いの主であるはずのわたしでも完全に理解できなくて。むしろ、わからないことの方が多い。辛いのに幸せとか、切ないのに嬉しいとか、ときどき矛盾した感情がこみ上がってきてわたしを混乱させている。
一人悶々としつつ彼の一歩後ろ、リタの隣で歩いているとようやくこの声がかかった。
「今日はこの街で一休みするか」
「さんせーい…つ、づかれた…」
カロルは朝から張り切って走り回りすぎたせいか夕方の今では大きな鞄が可哀想になってくるほど疲れたような顔をしている。
「そうね。ちょうどすぐそこが宿屋だし」
「おっさんもちょいと休ませてもらうわ…」
リタとレイヴンがそれぞれ違った様子で返事をする。わたしとジュディスもそうしましょうと相槌を打ち今日の一泊が決定した。
*****
自分の膝には読み過ぎてぼろぼろになった大好きな本を置いて読みながら、剣を手入れしている彼の横顔を、何となしに眺めていた。
外は昨日の透き通るような晴れのから一転、生憎の大雨なので、こうしてみんなで昨日泊まった宿屋に引き続き同じ大部屋をとってそれぞれが思い思いのことをする、ということに決まった。リタは少し離れたところで走り書きの計算式を組み立てて、時々わかった、なんていう歓喜の大声を上げてそれから恥ずかしそうに下を向いてまた書きはじめて…というその繰り返し何度も何度もしていた。カロルは魔物図鑑のページを捲って、書き綴りときどき眠そうに欠伸をしている。パティは台所を借りておでんの開発に勤しんでいるし、レイヴンとジュディスはこの天気にも関わらずどこかへ出かけてしまったようだ。ラピードはユーリの傍で滅多に見ることのない寝顔を見せている。
そして彼へ散り散りになっていた彷徨っていた視線を戻す。鞘を投げ捨てる戦い方ではあるものの、戦闘へは彼なりの流儀を持って向かっているというのはわかる。それで振るう剣はいつも戦っている仲間であり、相棒であるのだから大切にするのは至極当然のことである。いつもより穏やかな顔で、ゆっくり手入れを続けている。
「……ステル、エステル?」
はっと我に返る。部屋の中の温かい空気に包まれて、思考もそれにのせて何処かへ飛ばしてしまったおかげで、ユーリに呼ばれていることに気がつくのが遅くなってしまった。眠くもないのに、どうしてこんなことが起きるのだろう。彼は少し疑っているような、困っているような顔でエステルを見つめる。またこの感覚。恥ずかしい。見ないでほしい。でも、ずっと見つめていたい。
「は、はい?どうしたんです?」
「いや、さっきから本を読んだりこっち見たり、めずらしく夢中になってねえなと思って」
「そ、それは…わ、わたしでも夢中にならない日ぐらいあります…!」
「ふうん?それならそれでいいけどな」
なんて、彼は何かを知っているような少し面白がっている顔でわたしを見た。こういう会話の随所で彼はときどきわたしのことを全て見透かした上でからかうような視線を向けてくる。時々見せる彼の人生経験から来る心理的な余裕が尚更わたしを焦らせるのだ。彼とわたしの年の差は三才だけど、先の理由でそれ以上に差が開いているようにも思える。そのどうしても埋めることの出来ない余裕をわたしは意地悪と形容する。ずるい、とも言う。
少し納得がいかないので手元の本に集中しようとすると、どうしても彼が気になってしまい集中できない。ページを捲るその短い間に頭の中で描かれていたお話の流れがぴたりと途切れてしまう。そこでふと思いつく。この本は分厚くて大きいから気付かれないだろうか。本の隙間から彼を盗み見ようとそろりそろりと本を持ち上げていく。
あ、と声を上げたときには遅かった。彼と示し合わせたかのように目が合ってしまった。すかさず本に混乱している意識を落とそうとするが上から手が伸びてきて、いとも簡単に重いはずの本を取り上げてしまった。
「か…返して下さい…ユーリ」
「エステルがさっきから挙動不審な理由を言ったらな」
「う…」
答えに詰まっていたところでパティがおでんの試作品ができたのじゃ!、と皆を呼びにきた。わたしにとっては天使の一声だ。ユーリは少し不服そうな顔でわたしを見てそれから立ち上がってパティの元へと歩いていった。ホッと息をつく。
―――自分でも、わからない。
物語の主人公をユーリと重ねてしまったり、彼が立てるちょっとした物音が気になったり。いつもならこんなことで悩むことなどないはずなのにどうしてと自問自答してしまう。熱でもあるのかとおでこに手を当ててみても、特に温度が高いというわけでもなさそうだ。
エステルも早く来るのじゃ、ともう一度パティに声をかけられてやっと我に返った。これが何故なのかユーリは知っているのだろうか、でもなんとなくこれは聞いてはいけない気がするのだ。
おでんはやっぱり苦手だ、とパティが作ったものを味見しながら思う。決してパティが悪いわけではない。むしろ彼女は料理上手であるし、自分のそれを遙かに上回っている。けれどお城ではこういう食べ物は出ていなかったので舌が慣れていないのだ。自分が作ろうなんて考えたこともなかったし、もしそう言っても城のコックに止められていただろう。もしわたしがお城にいなかったらもっといろいろなものを食べられて好き嫌いも減っていたのだろうか、と思うと少し悲しくなる。その証拠に、ユーリやジュディスは好き嫌いがほとんどない。
パティにごちそうさまでしたと挨拶をして食堂から出た。雨音がしないので窓を覗くと、あんなに降り続いていた雨が止んで晴れ間から太陽が覗いている。差し込む一筋の光は雨上がりの明るい空を包むカーテンのようで思わず見とれてしまう。あれをもっと近くで見たい、そう思ったので気晴らしに外へ散歩に出かけることにした。
「うわあ…」
薄く輝く光のカーテンを開けて、その先に進むと七色の虹のアーチがかかっていた。初めて海を見たときのあの感動。やはり世界にはたくさん素敵な景色がある。お城の窓からこの景色を覗くことは出来ても、実際にその夢の中に迷い込むことはできない。
本をいくら読んでみたところで現実の人々の気持ちがわかるわけではないということと同じように、外に出てみなければわからないことはたくさんある。
地面には水たまりが転々と集まりを作って、空の鏡を形作っている。服と靴が汚れるのも気にせず、踏んでみた。水しぶきが光の粒のように自分の靴の周りから飛んでいった。面白くてあちこちにある水たまりを踏んでみる。靴と服は晴れたのですぐに乾くだろうなんて思いながら一歩一歩楽しみながら、踏みしめながら道を歩いていく。
ふと気付く。
見慣れた黒い服。手には鞘に収まった剣をぶら下げている。そんな人が目の前にいる。
「宿屋に姿が見えないと思ったら、こんなところにいたか。さっきからふらふらしてっけど、具合でも悪いんじゃねえの?」
「ふ…ふらふらなんてしてません!水たまりを踏んで歩いていただけです…」
わたしが正直にそう言うと、彼はふっと吹き出し笑い始めた。
「なんというか…らしいよな」
その彼の言葉に返す言葉がどこにも見つからなくてわたしはまた俯いてしまう。彼の顔を見たいのに見られない。ただでさえもいつもより早く大きく脈を打っている心臓がぎゅっと強い力で握りつぶされそうになる。
それをなんとか堪えて、もう一回視線を彼に戻してみると彼はじゃ、オレは行くからとわたしに手を振り来た方向へ引き返そうとしているところだった。わたしのすきな、横顔。
―――何かを、言わないといけない気がする。
貴方をみていると息が苦しいんです。
貴方と話すと、普段のままじゃいられなくなるんです。
でも貴方をみると、幸せな気分になるんです。
貴方が笑うとわたしも嬉しくなって、貴方が悲しむとわたしもすごく、悲しい。
ずっと、傍にいたいです。
咄嗟に彼の腕を掴む。彼は驚いたような顔をして、何かを言おうとしているわたしに向き直った。
全て違う気持ち。でも同じ気持ち。この気持ちに名前をつけるとしたら。
言葉にするとしたら、わたしはあなたが、
「好きです!」
「わたしは、ユーリが好きです」
言ってしまった。そう思ったときにはもう遅かった。恋愛なんて、したことなくて。本でしか、読んだことなくて。自分から出てきた言葉はあまりにも唐突すぎて。自分でも訳がわからない。
一方の彼は唐突にそんなことを言われ戸惑っているかと思いきや、やれやれとした肩を落として下を向いた。
それからわたしが掴んでいた彼の腕が勢いよく引かれてバランスを崩して地面に倒れ込む――はずが、代わりに肩に手を置かれ支えられていた。そのまま―――。
水たまりに映ったぼんやりした影が重なる。
「やっと気付いたか」
「オレも、」
「エステルのこと、好きだから」
そして私は散り散りだった視線がようやく交わって、気付いた。彼がこれまでにわたしに見せたことのない表情をしていること、彼の瞳の奥は優しさに溢れていること、それから―――わたしは彼の横顔だけじゃなく全てが好きなこと。
空に架かる虹は、未だ二人を繋ぐように色鮮やかに架かり続けている―――。
虹をテーマに書いた作品。
告白話って書いてなかったなあと。
[2011年 03月 25日]